第2回 問題解決に向かって
第2回 問題解決に向かって
一回目の「二つの自分」は少し難しすぎるところが多々あったかもしれません。
自分の本体は、元来、どうしても深すぎてわかりずらいところが残ります。
しかし、ここはどうしても問題解決を最終的に委ねるところなので触れないわけにはいきませんでした。
「いのちと言う自分の中の創造主」すなわち「真我」と「いわゆる小我の自分」とが基本的に同調していないことには、つまり、つながっていないことには、人生は上手くいかないようにできているからです。
その為には、なによりも真我をしっかり認識し自覚していなければならないのです。
そんなことはお構いなしに、とにかく全身全霊で努力していけばいいんだ、と突っ走っていっても世の中上手くはいきません。
そんなふうに出来ているのです。
第一、これまでの皆さんの人生がそうだったのではないでしょうか。
だからこそ、この記事に関心がおありだと思います。
「汝の若き日に汝の創り主を覚えよ」
別に若くなくても老人でも何歳であってもこのことはとても大切なことです。
あなたの中の創り主につながることが健康でも仕事でもなんでも幸せには不可欠なのです。
皆さんには、これまで、こんな視点をおそらく持たれたことはなかったと思います。
むろん、これは、いわゆる宗教ではありません。
いわゆる宗教とは、ほとんどの場合、自分以外の何かにすがるようにさせます。
そうして信者をコントロールし支配します。
そして自分(教祖)は神だが、皆さんはそうではない、というスタンスで臨みます。
しかし、ほんとうは、ほんとうの独立自尊の「自分の内なる神に頼る」ことです。
自分の内になる神に頼むのに何の遠慮がいるでしょうか。
あなたの為にそこに「在りて在る」のですよ。
そこに泣きついたらいいんです。
疲れたらそこにそり添って「有難う、愛しています」と言って癒されたらいいんです。
そして、ホンモノの宗教家は、皆、全く同じことを言っています。
「自らの内に自らの灯(ひ)を掲げて歩め」と。-仏陀ー
「神の国は、実に、あなたがたの中に在る」と。-イエスー
そして、神社も、元来は、「己の内なる神」を神社の鏡に映し出すことによって祀られている神と一体となって祈る。
それが神社に鏡が置かれている秘義のように思います。
神社とは、そういう場所なのであって、そこの神に、ただ小我が、一方的に懇願して、ないものねだりをするところではありません。
すくなくとも自分はそう思っています。
それと共に大事なことは、常日頃の心の在り方です。
日常生活の中で、あなたがあなたの真我と出来る限り同調して生きていくことが大切なのです。
例えば、NHKの放送を聞くには、チューナーをそこに合わせる同調操作が必要です。
同じように、いのちの真我の世界との同調の操作が必要なのです。
そうすれば、人生は好転していくようになっています。
英語で「in tune with the infinite」。
「無限なるものと同調する」ということ。
無限なるいのちの世界。
それは、第一に、黙々と私たちを生かそうとしているいのちの本質である愛という存在なので、私たちもこれに同調操作して生きていくには、誰に対しても何に対しても、モノに対してさえも愛が不可欠なのです。
愛は人を裁かず、批判せず、ましてや人の悪口は言わない。
愛は、謙虚で「有難い」という感謝を知り、驕(おご)ることなく、自慢することなく、威張るということもない。
愛は恨まず、ねたまず、羨まない。
愛は許し、許しを請う。
なので、「愛であるいのちの創造主」は次元を異にしていつも幸せで楽しく面白い笑いの中にいますから、こちらも常に幸せで楽しく面白く笑って同調することにより、すべてが上手く回り出すようになるのです。
ついでに申しあげますと、孝明天皇も勅願所を建てられるほど帰依された幕末が生んだ偉大な宗教家、黒住宗忠公の悟りもこれでした。
その悟りとは、「嬉しい、面白い、有難い、この三つの気分が人間に揃(そろ)うと、人はこの世で叶わないことは何一つなくなります」というものでした。
また、この世が暗たんたる暗闇となってしまった時に、天の岩戸の外で、みんなが笑いに笑い笑い転げていると、どうしても出てこられなかった天照大御神が天の岩戸からお出ましになって、再びこの世が明るさを取り戻した、という古事記の「天の岩戸神話」は、以上の真理を神話として伝えたものです。
このようにして、「いのちと言う創造主の世界」と、とにかく同調して共に歩むことが、如意自在への第一歩となります。
そして、この同調(in tune with the infinite )とともに、少しずつ、あなたの運命は底上げされていきます。