アメノコヤネによる神ながらの道と成功法則

委細心得

委細心得


七世紀の飛鳥時代、下総の国の香取神宮に弓前値名(ゆまあてな)という神職がいました。

この人物が先祖のアメノコヤネからの口伝えのメッセージである「神文」を漢文体の日本語に文字化したのです。

この値名からさかのぼること十三代前、紀元360年~400年ころに値名の先祖の弓前一族と鹿島の神職の先祖の中津一族とが一緒に、大君のいる九州五島列島から鹿島にやって来たのです。

それは、アオピルメムチチ(記紀では、オオヒルメ、奈良時代に天照大御神と改名される)の命であり、地上での命令者は、天族の統領、天威戸(アマカド)の天の大君、アオタオチロワケ(記紀でいう景行天皇)でした。
こうした歴史は、同じ値名によって「委細心得」になかに「神文」とは別に書き記されています。

委細心得前半

委細心得は前半と後半とに分かれています。

前半はまず、「世々の弓前和が相伝えし秘聞、誤りなきようここにしるす」との断りから始まっています。

秘聞とは何か?

秘聞とは、公開してはならない秘密のことです。

その秘密とは、まず、天皇家、藤原家の出どころ、出自です。

次に、大和朝廷の起源、そしてこの国の精神的いしずえである古社といわれている伊勢をはじめ鹿島・香取などの神社の創建の秘密です。

以上のことは、未だに秘密のままです。

ですので、今でも以上の出所と起源については、まあ、いろんな仮説が立てられて、かんかんがくがくの論争が果てしなく続いていますが決着がついてるとは言えません。

ところがここで、以上の秘密、それを誤りなきようここに記す、と書いています。

ということは、この委細心得には、以上の秘密がすべて書かれているということです。

天皇家、藤原氏の出処だけではありません。

大和政権成立以前の九州での倭の国の歴史、そして、奈良での大和政権という新しい日本国の建国に伴い、国の礎の霊的仕組みとして、出雲、広田、長田、生田、更に東に進み、大神(おおみわ)、大和(おおやまと)、伊勢、そしてさらに東の最果てに、鹿島・香取の神社が創建された次第が語られています。

こうして新しい日本国建国のために、天地大自然のエネルギ-(八百万の神々)を発し循環させる霊的拠点として斎祀(いつきまつ)る為に多くのお社(やしろ)が創建されたのです。

そして人々による厚き敬によって神々はその威力をまし、人々はその神々の御神徳(エネルギー)によって日本国の未来と人々の運勢に力を添えることができる仕組みを作り上げていったわけです。

日本という国がいかに優れた国であるかの霊的基盤がこのようにしてできあがっていったのです。

これが「神州不滅」のほんとうの意味です。

記紀ではこれを「天壌無窮の神勅(てんじょうむきゅうのしんちょく)」という表現で伝えています。

その意味は「天津日継(皇位)は天地と共に永遠に栄えていくことであろう」ということです。

今時、こんなことを言うと、「右翼か!」と一蹴されそうですが、あえて言わせていただきます。

これも、ヒルメムチ大霊(天照大御神)の神意だ、と委細心得は記しています。

ことに、最後の鹿島・香取を斎祀(いつきまつ)る重要性を次のように記しています。

「ここに、カムロミタカミムツピ大霊(おおひ)の日毎の霊垂育(ヒタチ、タカミムスビ大神の宇宙エネルギーのこと)は、垂力(タジカラ、記紀のいう手力男神)の左右の珠(左の香取のフツヌシと右の鹿島のタケミカツチ)によって日毎分かち与えられ、大八州(おおやしま、日本国全体)は鎮まり治まらん」と。

鹿島のピカの珠と香取のプツの珠という宇宙からのエネルギーをこの両神宮で受けて、必要に応じてこのエネルギーを「鹿島立ち」させることによって、はじめて「日の本」は鎮まり治まるだろう、と結んでいます。


委細心得後半

では、委細心得の後半には何が書かれているのでしょうか。

そこには、まず値名が神文を木版にしたためたこと、秘聞も時の来るまで秘匿することを厳守し、代々の弓前和(ゆまに)が伝承すべきことが書かれています。

次に、南北朝の時代に南朝にあって、神官の弓前和であった藤原内実(ふじわらうちみ)の記録と思われますが、春日社成立の次第が記されています。

それによると、はじめに鹿島の最後の中津身、時の右大臣、藤原不比等が鹿島のピカの御霊を都の春日山の上に祀ったこと(現在、本宮神社と称し春日の奥の宮と言われています)が記されています。

下って、不比等が春日山にはじめて鹿島の神を祀ってから六〇年後の時、称徳帝の時代、神護景雲二年(七六八年)に、香取のプツの御霊を勧請して、鹿島のピカの御霊と共に春日山の麓に鎮めて春日社としたことが記されている。

これが現在の春日大社の始まりなのです。

同時に、このお社が、元来は、鹿島の中津身の後身である国の表に立つことになった藤原氏の大臣(おとど)のためのお社であったことをも記しています。

内実はまた、板文が摩耗したので新に紙面に書き移したこと、神文の音声が正しく伝わるように「漢字の音訓書」を付け加えています。

さらに、この秘文書を伝承するものへの戒めや心得を記しています。

例えば、長旅をするときは、神文に社の常磐の葉と麻緒を添えて懐中すればかならず身を守るお守りになることなどです。


弓前文書が伝承された経路の概略

次に、この弓前文書がどのような経路をたどって最後の弓前六十七代の池田秀穂先生にまで受け継がれていったかを概観しておきましょう。

初代弓前(正式には弓前和であるが省略します)である飛鳥時代の弓前値名から数えて十代下った弓前の時代は、七百六十年代の称徳天皇の御世ですが、この十代弓前に「藤原今和(いまに)」の称号が与えられ、「弓前文書」をもって印綬(身分や位階をあらわす官印)としていました。

その多くは、朝廷の学問所の大学頭に就任しました。

今でいえば、東大の学長と言ったところでしょうか。

あるいは、それより権威があったかもしれません。

この時より四十年前には日本書紀、その八年前には古事記が撰上されています。

そこん所が面白いと思います。

記紀と弓前文書の記す歴史とはその内容があきらかに食い違っています。

それが問題にならなかったのは、おそらく情報交換の事情が今とはまったく違っていたからでしょう。

両方を比べる機会は、弓前の方にはあったかもしれませんが、あったとしてもそれは秘密中の秘密ですからこれを持ち出して事を荒立てるなどということは神罰ものであったでありましょう。

記紀を知っている人もまた当時は少なく、これをよく知る人であっても弓前文書を見る機会はなかったはずです。

歴史は下り、南北朝時代。

藤原今和は後醍醐天皇の南朝側にいました。

その時の弓前が藤原内実(ふじわらうちみ)という人でした。

北にいた藤原氏は同族でしたがこれを憎み、両朝が合併された時、面倒を避けて今和という称号は廃止されます。

さて、それからは、藤原氏の五摂家の一つ、九条家、この家は公家の有職故実の専門職ですが、この九条家の内々で弓前文書は学習され伝承されていくことになります。

しかし、一四六〇年の応仁の乱の世となり、その学習はままならず、あとはただ、いかに弓前文書を保存するか、その一点に絞られました。

その内容について勉強する余裕はもはやなかったのです。

江戸の徳川の世となって、三代将軍家光の時に、九条家の中でも今野家が弓前の印綬を伝授し保全することになりました。

1717年、将軍吉宗の治世時代、故あって今の岡山県の但馬に天領の一部を与えられ姓を改めて下野したのが池田先生の先祖です。

どうやら宮仕えに嫌気がさしたようです

池田姓にしたのは、そこの領主池田公と朝廷では同じ従四位であったので、許可を得て池田姓を名乗らせてもらったとのことでした。

そして、弓前文書一式は京都所司代の預かるところとなり、徳川幕府が崩壊する明治の代となり、その一式は再び池田家に返されることになったのです。

そういう経緯をたどっています。

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