アメノコヤネによる神ながらの道と成功法則

日本の古代語


日本の古代語

ほんとに大雑把ですが、日本語のルーツのここでの仮説は、およそ三つの言語系統からできているというものです。

一つは、氷河期以前から縄文時代を通じて日本内陸に土着していた人々が話していた縄文語、それから、この縄文人の中から、氷河時代が終わった約一万 年前ごろから三~四千年くらいの間に、海洋民として海へ進出した倭人天族が独自に発達させたここで言う弥生語があります。

そして紀元一世紀前後をはじめとして何度か日本へ渡来してきた人々が話していた渡来語の三系統です。

このホームページであつかう古代語とは、当然、二番目の倭人天族が話していた弥生語です。

何故なら、四世紀半ばころに、倭の国、九州と奈良の大和の国に政権を打ち立てた倭人天族が話していた言葉だからです。

支配者の言葉が主要語になるのは世界中みな同じです。

しかし以上の三つの言語のそれぞれの比率は、縄文語が八十%以上、渡来語十%で、弥生語はせいぜい八~九%でしょう。

なのに、その弥生語が、何故重要かといえば、それが、日本の文化の中心的な言語として日本の主要な神々の名前、たとえば、古事記の冒頭の天御中主神からイザナキ・イザナミの神まですべてこの弥生語で出来ているからです。

これらの神々のほんとうの意味は、弥生語の一音一義(一つの音に一つの意味がある)によってしか解くことはできません。

これまでの、どんなえらい学者さんも碩学も宣長さんも折口信夫さんも今一つなのは、これを解く鍵が与えられていなかったからです。
どんなに頭が良くてもマスターキーがなければ無理なんですね。


「弓前文書は天児屋根からの伝言です」という新しいブログも立ち上げました。御笑覧のほどをお願いします。

弥生語とはどんな言葉か

さて、そもそも、ここで言う弥生古代語とは一体どのような言葉なのか、その概略だけでも述べておく必要があろうかと思います。

古事記や日本書紀が編纂(へんさん)された頃からみても、弥生語は、すでに何百年以上も前の言葉です。

 無論、その弥生原語は、その後も、その多くが言葉としては残ってはいきますが、本来の意味は、奈良時代の頃には、すでにほとんど分らなくなっていたようです。

なによりも、時とともに発音自体が、大きく変化しています。

例えば、天照大御神の弥生原語として「オオヒルメムチ」という言葉を残していますが、この時点でもう、正確な発音は既に変化しているのです。

本来の弥生語は、「アオピルメムチチ」です。

奈良時代に入った頃には、代わって、「天照大御神」という表現に変えたということもあってか、いつのまにか、アオピルメムチチはオオヒルメムチと変化してしまいます。

 古事記も日本書記も、古代弥生語の原語が忘れ去られてかなり久しくになってから編纂された書物です。

従って、タカミムスビ(高御産巣日、記)とカミムスビ(神産巣日、記)の「タ」という一字の違いの意味など、もうとっくに理解できなくなっています。

だから、記紀の編纂者は、タカミムスビとカミムスビを「陰陽の違い」としてこの解決をはかっています。

当時の知識人や学者たちは、中国文化の影響で漢字や陰陽(いんよう)五行(ごぎょう)の思想にすっかりなじみ、一音一義の古い昔の日本の言葉には、はなはだ疎(うと)くなっていました。

カミムスビとタカミムスビの二つの言葉は、現代人と同じように、どう見ても「陰陽」と解釈する以外に考えられなくなっていました。

そうなると、中国仕込みの陽優先(ようゆうせん)思想によって、タカミムスビは、陽の神として、陰の神カミムスビの前に位置づけられ、タカミムスビ→カミムスビという順序となっているのです。

朝廷は、既に、先進の技術文明とともに、朝鮮からは、大変便利で魅力的な仏教文化や漢字を導入していました。

当時の日本の知識人にとって、それらすべてが目もくらむようなカルチャーショックであったにちがいありません。

そのため、多くの技術や知識を身につけた渡来人(とらいじん)達を、どんどん日本へ流入させます。

彼ら渡来人は、まず、日本語を自分達にもわかるやうに、テニヲハの助詞そして単母音eなどを導入します。

古代日本語には、母音eで終わる言葉がとても少ないという国語学者、大野晋氏の指摘がありますが、それは、日本には、元来、母音eはなかったからです。

母音eは渡来人がもたらしたからです。

更に、日本の言葉を漢字で表記する、いわゆる、万葉仮名(まんようがな)と呼ばれる新しい表記の方法を編み出したのもかれら渡来人でした。

もともと極めて原始的な構文であった弥生語は、こうした当時の複雑化した時代状況に対応するには、もはや、大変不便な言葉といってよいものでした。

こうして、弥生語は、次第に、その本来の姿を失いながら、その後の漢字かな交じりの新しい大きな日本語の潮流の中に巻き込まれ溶け込んでいったのです。

すなはち、弥生語の一音一義は廃(すた)れ、変わって、ひとかたまりの語句によって意味をなす、この点では、今の日本語と全く同じ語法が出来上がっていったのです。

オオヒルメムチは、弥生語でアオピルメムチチ、本来の意味は、「ああ威大なるモノを生む日のエネルギーの流れよ」ですが、そこから、天照大神というわかりやすい名に変えます。

オオナムチは、弥生語ではアオナツムヂ、意味は、「ああ威大なる大地の幾重にも重なり合うエネルギーの流れよ」ですが、これを大国主命という名に変えていくのです。

鹿島の神、ピカ(pika)→ヒカ→イカないしミカ、ここから建イカヅチ(記)、武ミカ槌(紀)

香取の神、プツ(putu)→フツ→経津主という具合です。

このことに関連して、わたしは、最近、古代の神名に関する、ある高名な学者の面白い見解をみつけました。

神話学者の西郷(さいごう)信綱(のぶつな)氏は、その神名が、新しいものか古いものかを判読する基準は、「透明度」にあるとして、「古い名が、多少とも、曖昧さと不透明さをもっているのにたいし、新しい名は、おおむね、透明で、おめでたい」(『古事記注釈』第1巻、平凡社,1975年、224頁)と述べています。

元千葉大教授である三浦佑之(すけゆき)氏は、これをうけて「天照(あまてらす)大御神(おおみかみ)や大国(おおくに)主神(ぬしのかみ)といった、見ればわかる、聞けばわかる神名は、新しい神名で、同じ神でも、別名の、オホヒルメムチ(大日孁貴)や、オホナムヂ(大穴牟遅)は、由緒が古い、ということになる。

わたし(三浦氏)は、いつも、この判断基準を援用しながら、古事記の神を解釈するようにしているが、それは、とりもなおさず、古くて由緒のある神ほど、素性不明である、といふことを意味している。」と。

これは、三浦氏が、「古事記、言葉の呪力」(『言葉の力』文藝春秋特別版、平成十七年)のなかで述べておられる記事ですが、これで、ここで弥生語といっている古代語に対する現在の学問の捉え方や、理解の程度がよくわかります。

要するに、オホヒルメムチやオホナムヂは、「古くて由緒ある神」であるが、「素性不明」である、というのです。

言い換えれば、「意味についてはわからない」と言っているわけです。

だから、曖昧で不明瞭である。

それが、時代の古さの判断基準になる、と言っているだけです。

一方、天照大御神や大国主神は、「見ればわかる、聞けばわかる神名」であるから、「透明度」が高く、新しい名であることがすぐわかるというわけです。

古さの判断基準は、分かるが、やはり、その古い言葉の意味は、結局はわからない、という点では、西郷、三浦両先生とも同じです。

要するに、記紀に残る古い神名に対する学問の現状は、失礼ながら、この程度なのだ、と言えると思います。

このような古語に対する学問の現状は、一体、何を意味するか。

それは、どんなに頭のよい学者であっても、それを解く鍵がなければ、記紀に出てくる神名のような古語は、どうしても解読できないということです。

この古いほうの神の呼び名こそ、まぎれもなく、ここで言ふ一音一義の弥生語なのです。

あの、大和朝廷を打ち立てた倭人天族が使っていた言葉そのものなのです。

一音一義の弥生語をかなり習得させていただいた私には、「オオナムチ」も「オオヒルメムチ」も「不透明な神」でも「素性不明な神」でもありません。

実によく理解できる神々です。

だから、一音一義を解せなければ、「不透明な神」であり、「素性不明な神」となるのは当然です。

こうした、神々の古い名から新しい名への変化は、およそ、七世紀頃から八世紀半ば頃にかけて為された、わが国始まって以来の政治的、文化的大変革期の流れの中で起こったようです。

それは、だいたい飛鳥の御世の聖徳太子(ないしこの人の名で伝えられた勢力)時代の頃から、およそ、奈良時代の終り頃ぐらいまでの大転換期にあたります。

そして、こうした変換期の時代の言葉の移り変わりを立証するよい例を、万葉歌人の第一人者、柿本人麻呂(かきもとのひとまろ)の次の歌に見出すことができます。

「天地(あめつち)の 初めの時し ひさかたの 天の河原(あめのかわら)に 八百万(やおよろず)  千万神(ちよろず) 神集ひ 集(つど)ひ坐し(ま)て 神分ち 分ちし時に 天(あま)照す(てらす) ひるめの命 天(あめ)をば 知(しろ)しめす・・・・・」 (万葉集  巻二  一六七、柿本人麻呂)

 ここに出てくる「 天(あま)照す(てらす) ひるめの命」 という、この表現は、まさに、弥生語、「オオヒルメムチ」から奈良時代の新表現である「天照大御神」へと変わっていく過渡的な表現として、大変貴重な文献と言えるでしょう。

日本語には何故、音(おん)と訓(くん)があるのか

漢字は、元々、日本のものではなく、中国から入ってきた中国語であったことは、すでにみなさんご存知だと思います。

まとまって入ってきたのは四世紀~五世紀の頃と記紀などは記していますが、漢字自体はもっと前から入っていたようです。

漢字というのは「文字の形」に意味があります。

一方、日本語、特にここで言う「弥生語」である古代倭語は、音に意味がありました。

弥生語は、一音一義、一つの音に必ず一つの意味があります。

それで、日本では、中国語の音と日本語の訓を残しています。

例えば、海は

   ウ (u)(生まれ出る) ミ(mi) (物体)

元々の弥生語では、ワタツウミです。

それが、→ワタツミ→綿津見の神となります。

ワ(wa)(横に広がり)  
タ(ta)(とても)  
ツ(tu)(積み重なって) 
ウ (u)(生まれ出る)   
ミ (mi)(ところ)

で、

「浮き上がって満ちているところ」の意味で「海」の意味になるのです。

海をウミと言えば、元々の古代倭語だから、一音一義で意味が取れるのです。

海をカイと言った場合は、中国読みだからその音には意味はない。

形の氵(さんずい)は水の意味で、毎(かい)は、暗くて深い、の意で、このように形に意味があるのです。

そこで、倭人天族の人たちは、海の神をワタツミ(綿津見)の神と言っていたのです。

彼らは、海洋民だったので、いわゆる天孫降臨とか神武東征とか言われた内地への上陸以前からこの神を祀っていたので、この神を祀った九州、今の福岡地方にあった住吉神社はとても古い起源をもっているのです。

だいぶ前のことですが、「聞け、ワタツミの声」という新東宝の映画がありました。

「海の藻屑となって戦死された方々の声を聞きなさい」というような意味だと思います。

ついでに、山を何故ヤマと言うかと言いますと、これも古代弥生語で、元々は

ヤ(yau) (弥) 
マ(mau)(盛り上がり) 
ツ(tu) (更に)
ジュ(jiu)(集まった) 
ミ(mi) (ところ)

で、  
この言葉が転訛(言葉が発音の便宜上変化する)で、ヤマズミとなります。

愛媛県今治市にある大山祇神社(オオヤマズミジンジャ)の御祭神ですね。

ヤマツジュミから大ヤマズミと転訛したのです。

漢字が日本に入る前の日本の言葉はどんな言葉だったか

漢字が中国から朝鮮を経由して日本に入ってきたのが、応神天皇十二年の頃。

記紀の歴史観だと、西暦二百十六年の頃となるのでしょうが、弓前文書の史観からすると、ハツクニスメラミコトの崇神天皇の大和国の政権樹立が約三百六十年位だから、応神の時代は約二百年下った四百年の十年代の頃となるでしょう。

百済(くだら)の王仁(わに)といふ者が、論語十巻、千字本一巻などを携へ日本の朝廷に献上した時とされています。

その時から日本の文字の歴史が始まったとされます。

その後、朝廷は、農業や製鉄に関する最先端の技術者集団であった渡来人たちを大量に日本に入れるのですが、その多くは韓国人でした。 

しかし実際には、この頃よりもずっと前に渡来人と呼ばれる人々は中国や韓国からどんどん日本に来ていたやうで、漢字も既にかなり入っていたといふのが真相のやうです。

日本は、その頃、圧倒的な文明を以って栄へていた中国に並ぶ国にしやうと躍起になっている頃で、それで漢字を知っていた技能知識を見こんで多くの渡来人を招聘(しょうへい)したのです。

彼らは、やってくると、早速、日本語の言葉の音に漢字を当てはめる、いはゆる万葉仮名と呼ばれるものを編みだし、日本で話されていた言葉の文字化をはかったのです。

やがて、漢字を省略した形のカタカナやひらがなが生まれますが、次第に今の日本語に近い漢字かな混じりの日本語の表記が出来上がっていくのです。

改めて言ふまでもないことですが、日本に漢字が入ってくる前から日本にも話し言葉は、当然、ありました。

それはそうです。

文字はなくても話は出来るし、現にどこの国でも幼い子供は文字を知らないでも話をしています。

世界中に文字の書けない文盲の人々が現在でもたくさんいますが、彼等もそれぞれその国の言葉をかなり自在に流暢に話しています。

大昔においては、言葉は口から口へと伝へられ、耳に留(とど)められ記憶されてゆくものでした。

これを口承(こうしょう)と言いますが、わが国固有の言葉や神話も、漢字が日本にやってくる以前には、こうした口承によって受け継がれていったのです。

では文字がない頃の日本の言葉とは一体どんな言葉だったのでしょう。
 
その前に、これは、一つの仮説として理解していただいて結構ですが、その頃の日本語は、大きく分けて、縄文語、弥生語、渡来語の三つから成り、そのパーセンテージはおよそですが、次の通りと推測しています。

 日本語のルーツのほとんどは最も古い縄文語と呼ばれる言葉です。

これが日本語全体の凡そ80%位を占める。

とすれば、大概の日本語のルーツは縄文語になるわけですが、それはアイヌや九州隼人(はやと)族や熊襲族、その他いはゆる倭人天族が上陸する以前に土着していた人々の言葉です。

一方、弥生語は、たかだか8%前後にしかすぎない、と推測しています。
だったら、弥生語はそれほど重要ではないのでは、と思はれるかもしれませんが、そうではないのです。

この8%の弥生語が、例えば、古事記のなかの言葉、ことに日本の神さまの名前の60%~70%以上も占めていたとしたら、逆にとても重要な言葉だといふことになります。

そうなんです。

祝詞や宣命の中にある言葉は万葉集のそれよりも古いものが多いと分かっていますが、その古い言葉のなかに多くのここで言ふ弥生倭語ともいうべき古語が含まれているのです。

 こうした言葉が存在した時代背景を考えてみると、まずこの弥生語を使っていたグループの日本人というのは、九州の博多や五島列島などを本拠地として、主に南朝鮮から南の南洋諸島のあたりまで活動範囲を持ち、古代海人族(あまぞく)といはれたグループであり、後に大和朝廷の母体となった、いはゆる天津神(あまつかみ)系とよばれる人々の一団でした。

彼らを「天津神系」というのは、彼らが、海洋民だからです。

ほんとうは天から下った神々系と言う意味ではありません。

「天(あま)」=「海(あま)」です。

海洋民である倭人天族が祀っていた神々は、だからみな「天(あま)」と言う字がついています。

基本的には、奈良時代に「天」を付けた神々にしたのです。

話を戻します。

さて、ここで「弥生語」と言っている言葉は、既に、縄文時代の終わりごろから、稲作、鉄、船などで当時の日本をリードし、やがて九州から奈良に移って大和朝廷を打ち立てた人々の言葉であるからこそ重要なのです。

これらの言葉にはこのグループが奉じてゐた神々の名前とか神話を反映した古事記や日本書記の神代巻に出てくる重要な言葉が含まれており、しかもその占める割合も、神名に限って言うなら、60から70パーセントにも及ぶのではないか、と思います。

ところで、一般には古事記以前には、「推古朝(すいこちょう)遺文(いぶん)」とよばれる断片的な文献とか石碑以外には、文字として書かれたものはない、というのが定説でした。

平田篤胤などの主張する「神代文字」のたぐいは、現時点では、偽書とされていますのでここでは論外としておきます。

現在、「古事記以前に書かれたものは、何一つ残っていない」ということになっています。

「古事記の前文にもありますやうに、まあ、いろいろ存在したことは間違いないのですが、それらはすべて今では影も形も無い」<古事記の暗号  藤村由加、新潮文庫>とするのが定説となっています。 

ところがそうではなかった、と主張しているのが本論です。

<古事記の前文にもあるようにいろいろ存在した>といはれるその一つが存在していたのです。 
      
それがこの本で取り上げる「弓(ゆ)前文書(まもんじょ)980文字」の純粋な弥生語から成る古事記以前の文書です。

だけでなく、しかも、なんと、古事記冒頭の神代巻の原典なのです。

これを読み解いて世に出された方は、池田秀穂といふ方です。

池田先生の先祖は、朝廷で有職故実を担当していた九条家の分家、九条今野家で九条家は藤原氏であり、このことはどこか別のところでお話ししますが、藤原氏の前身は古代鹿島香取の中津・弓前一族です。

元々は六百二十年頃の聖徳太子時代の、香取神宮の神職、弓前値名(ゆまあてな)(聖徳太子のブレーンでもあったという)によって香取の中臣氏に伝承された天児(あめのこ)屋根(やね)以来の、口から口へと伝へられた口承神話の「弓前文書」を万葉仮名のような文字で980文字の板文(いたぶみ)として残したものでした。

その口承神話を、当時渡来人たちが使っていた万葉仮名に似た漢字にあてて残したのは弓前値名という人物です。

弓前値名は香取神宮の幹部神職の一人で、そして中臣鎌足の祖父、先祖が鹿島出身の中臣可多能估(かたのこ)が都にいて、値名(あてな)と可多能估(かたのこ)の二人は、聖徳太子の下で祭務官ないし神事に関するブレーンとして仕えたと伝へられています。

可多能估(かたのこ)が、当時、朝廷で祭務官という、今の大臣クラスのポストにいた重要人物であったことは、元京都大学の上田正昭先生がどこかで書かれています。

弥生語の話

ここで「倭(やまと)言葉」と言っている「弥生語」の話をします。

それは奈良に大和朝廷を打ち立てた倭人天族が九州時代から使っていた言葉です。

飛鳥・奈良時代にかけて出来上がっていく「大和言葉」とは一応区別します。

大和言葉は、元々あった音だけの日本語を文字化するにあたって、主に渡来人の力を借りてテニヲハを入れたり、日本語の音に漢字を当てはめる「万葉仮名」をもとに、漢字かな混じりの日本語を作っていったことに始まります。

これをまねて、約七世紀ごろ、口伝えにつたわった口承の「神文」を文字化したのが香取の神職、弓前値名です。

すでに何度か申し上げましたが、鹿島香取の中臣氏は、多くの歴史家が憶測しているような、五,六世紀ごろに、にわかに台頭して物部系の鹿島香取を乗っ取った、という図式とは異なり、もともと九州において大君の側近祭祀一族として仕えていて鹿島・香取の宮を創建した中津・弓前一族が後の鹿島香取の中臣氏です。

もっとも、鹿島香取の神職に中臣氏姓が与えられたのは、奈良の東大寺を建立された聖武天皇時代です。

同じ鹿島出身でも都にいた鎌足には中臣姓はずっと早く、その曾祖父の常磐(ときわ)時代に与えられています。

とにかく、崇神天皇が国の大王(おおきみ)として、大和朝廷を奈良に開いたその流れのなかで、伊勢も鹿島・香取も建立され、その時鹿島に「斎重城(さえき)」というすこぶる強大な軍隊を伴ってやって来たのが、中津・弓前一族の一大祭祀一族です。

これを守ってきたのが斎重城の物部系の一族だったのです。

そして、物部系一族が、関東のあちこちに徐々に拡散していくのです。

そして、中津・弓前一族が鹿島に派遣された理由、それは日毎東の最果てより「鹿島立ち」をする、宇宙のエネルギーである「ソラピカ」という天の大神を斎祀(いつきまつ)ることによって日本国を鎮める、という使命の為でした。

オオヒルメの命だ、と委細心得は記しています。

この「委細心得」のなかの冒頭に、「鹿島・香取の神」がそもそもどのような神であったか、が記されています。

それは、鹿島・香取にやってくる前の、九州時代のお話です。

そこには、次のように記されています。

「世々の弓前和(ゆまに)が、相伝えし秘(ひ)聞(ぶん)、誤りなきようここに記(しる)す。

カムロミタカミムツ大霊(おおひ)は、わが子、垂力(たぢから)の左右の珠(たま)、なれが子孫(うみのこ)に祀ら(まつ)しむ、と御祖(みおや)コヤネの霊事(ひこと)に、詔(の)り賜い(たま)き。

孫(まご)、中津(なかつ)と弓前(ゆま)に詔(の)り申す。
垂力(たぢから)の右は御雷(ぴか)、左は、布土(ふつ)の名あり、御雷(ぴか)は剣、布土(ふつ)は鞘(さや)と思え。

中津は、御雷(ぴか)を祀り、大霊(おおひ)の力を表す。

剣(つるぎ)使わざれば、常に鞘(さや)にあり。

ゆえに布土(ふつ)を祀り、常に、大霊(おおひ)の力を凝(こ)らすべし。

即ち、中津は常に表に立ち、大霊の御心に順(したが)う術を修め、弓前(ゆま)は内にありて、我の教うる大霊の力の数々を議(し)り、その法を修(おさ)べし。

この分限を誤たば、神罰を心得べし。世々の弓前(ゆま)、賢(かしこ)み伝えたり」

弓前文書の歴史書である「委細心得」は、まず、宇宙神であるタカミムツ大霊(おおひ)が、中津(なかつ)・弓(ゆ)前(ま)一族(後の中臣氏)の祖であるアメノコヤネに、「お前の孫の中津(なかつ)・弓(ゆ)前(ま)の兄弟に、わが子タヂカラの左右の珠である宇宙の天と地の力、すなわちピカとプツの珠(たま)を、それぞれ、祀らせてやろう」という神託から始まっています。

「霊事(ひこと)」とは、「御神託」のことです。アメノコヤネに宇宙神であるタカミムツ大霊(おおひ)が「御神託」を下したということです。

ピカは、後の鹿島の「タケピカツチ」の神、プツは、後の「プツヌチ」の香取の神です。

ここから倭人天族一行が東へとやってきて鹿島・香取として成立する以前に、ピカとプツの神は、長い間、「倭人」天族の本拠地であった九州の地(具体的には、五島列島のどこか)で大昔から祀られていていた、ということがわかるわけです。

ここの出てくる「タカミムツ大霊」をまず解き明かしましょう。

この神は記紀の「タカミムツビ」のことです。

現存する宇宙神のことです。これが本当にわかるのはここで言う弥生語からです。

タ  カ  ミ  ム   ツ   ピ
垂  威  實  醸   積   霊
ta ka miu mu tu  piu
    

その言葉の意味は、「霊妙な物質を生み出さんとする意志が、単に意志に留まらず、実際に発動するに至り、森羅万象となって、多種多様な現象世界が生まれた」です。

ようするに、ビッグ・バンで出来た宇宙の神、それが「タカミムツ大霊(おおひ)」です。

これが「タカミムツピ」、すなわち記紀の言う「タカミムスビの神」の実体です。

ここの「物質が発動し、数多(あまた)限りなく発現した」という「無量」の意味が、実に「タ,ta」という一音一文字に込められているのです。

日本書紀においては、タカミムツピの活躍の独壇場だと言ってもよいくらいに、この神が中心的な神として活躍しています。

なので、事実上の神社神道における「大宇宙の神」のことです。
外国で言う、ヤハウェ、エホバ、アラー、この神の神道式表現が、タカミムスビです。
その子供のタヂカラの左右のエネルギ体の神が「ソラピカ」(鹿島に祀る)と「プツツムノ」(香取に祀る)だというのです。

とてつもないエネルギーをもっているのがよくわかります。

弥生語の原則として次の二点が重要です。

①倭人天族(わじんあまぞく)の使っていた古代倭(やまと)言葉(ことば)、すなわち弥生語は、一音(いちおん)一義(いちぎ)の世界です。
一つの言葉に一つの意味があるのです。

一方、現代語では、言葉の意味は、ひとまとまりのフレーズでしかわからないようになっています。

中国語は、形に意味がありますが、日本古語である弥生語は、音(おん)に意味があります。

しかし、弥生語衰退と共に、朝鮮語のウラル・アルタイ語と同じ構文となった奈良時代の新しい日本語の成立によって、一音一義の世界は消えていきました。

つまり、「ひとまとまりの句としてしか意味をなさない」ようになってしまったのです。

この点では、現代語とまったく同じです。

例えば、現代語では「さわやかな」といった、ひとまとまりのフレーズでしか意味を持ちませんが、弥生語ではその「さわやかな」のそれぞれに一音一音の意味があるのです。

 さ     わ    や    か    な
(sa)   (wa)  (ya)  (ka)  (na)
(何もない)(広がりが)(益々)(大きく)(成る)

というわけで、「さわやか」なのです。大昔の日本人は、「さわやか」の一音一音に意味をこめて、この言葉を発していたのです。

次に

子音(しいん)は意味を表し、母音(ぼいん)は、その子音の意味の状態、強さを表す、という原則があります。

 日本語の場合、子音は、必ず母音を含んでいます。どの子音にも母音があります。

 弥生語では、母音は、ア  オ  ウ  イ の四母音です。

エは朝鮮から入って来ました。 エという母音はもともと日本にはなかったのです。六世紀以後でしょう。

ですから、元東大教授の大野晋が「日本の文献で万葉集のような古い文献には<母音エの入る言葉がほとんどない>と言っておられる指摘は、さすがに専門家でわかっておられると感服します。

ところが、高名な吉田神道の吉田兼俱などは「日本書紀神代巻」のなかで「アイウエヲの五十字は神代より之れ有り」などといい加減なウソを平気で言っています。

そして、この母音の順序は、実は、弥生語における母音の強さの順序なのです。

アが最大、オはその次、ウは更にその次、イは最も弱い、という子音の意味の強さを表しています。

例を示しましょう。

タ(T)行の子音は、すべて「物量、物の量」を表わしますが、母音の違いによってその分量が変化します。

 例えば、
ツ(tu)――ト(to)―――タ(ta)で、母音の弱い順からその関係を見てみよう。

ツ(tu)―――――五つのツ、積るのツ

ト(to)―――――十のト、富むのト

タ(ta) ――――――タ(垂)れるほどタわわのタで、十以上の数

で、u→o→ aという母音の順序によって、その物量がドンドン増えていくことがよく分かります。

     

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